20231031

 綿谷です。たまにはブログを書くか……と思うたび、前回から三か月くらいは時が経ってるので驚きます。時の早さに頭がついていっていないぞ。
 今日は一年程度書いていた長編小説『ライフ・イズ・ビューティフル』(=以下LIB)が完結したので、その記念に少しお話させていただこうかなと思っております。

 LIBは、元々フォロワーさんの一人が〝フォロワーをそれぞれポケモンの世界観でキャラクター化〟してくださったことから始まった内輪企画(=以下フォロポケ)をベースとしている物語です。いわゆる「俺たちが考える最強のポケットモンスターを作ろう!」ですね。登場する伝説ポケモン及びその地方特有のポケモンや現象、地方名、町の名前や場所、軸となるテーマや大まかなストーリー、果てにはゲームのタイトルまで決めて(〝ブレイブ&ビリーブ〟です)、フォロワー内でわいわいやっていたのが始まりでした。それで、光栄なことに私はチャンピオンとしてキャラクター化していただいたので、ならばそのチャンピオン視点から見た物語を書いてみたいと思い、筆を執ってみた次第であります。
 と、まあ、前置きをしましたが、おそらくこの記事はフォロワーさんしか読むこともなかろうという気もするので、ぼちぼちあとがきに入っていこうかと思います。例のごとくあとがきというものが不得手なので、そこはご愛嬌ということでお許しください。

 LIBはバハギア地方のチャンピオンであるヌムリネさんが幼馴染であるマロウ博士と、言葉通り思いを通じ合わせるまでを描いた話になります。『ライフ・イズ・ビューティフル』という表題については、ヌムリネさんがこれまで生きてきたこと、いま生きていること、これからも生きていくことに対して喜びを覚えてほしいという気持ちが大きかったと思います。
 また、それを書くに当たって、いろんなものをテーマにしました。ガラス玉、円形、タマゴ、色、繋がり、輪、そして勇気と信頼。ヌムリネさんがどのような思いでどのような道を進んでいったかは作中で一通り書けたかなという思いが強いので、今日は作中で選んだテーマやモチーフの話をしようかなと思っています。

 はじめはやっぱりフォロワーさんと作っていくものだからという理由で、繋がりや輪という要素を重視しました。エニシデシアというポケモンをバハギア地方の中心に据えたのはそういう理由で、名前も単純に「縁(エニシ)で幸(デシア)せ」という名付けにしました。エニシデシアは繋がり→輪→運命の輪/永遠の象徴のウロボロス→蛇→虹の蛇というように連想ゲーム的に要素を組み込み、そこに紅白飾りや正月飾り的な縁起物の要素を加えています。エニシデシアが水晶玉を持っているのは普遍的な龍のイメージからなのですが、ここに意味をもたせてみたら面白いのではないかと思い、そうして〝おまもりすいしょう〟というアイテムが生まれました。
 おまもりすいしょうはバハギア地方特有の現象、ユニオリングを発生させるために必要なアイテムの一つです。ポケットモンスターにおいて円形のモチーフというのはけっこう重要な意味をもっているのではないかという印象が個人的にあって、それはやっぱりモンスターボールが丸い点が根源にあるのかなと思っています。ボールが丸く、ポケモンと人間が暮らすこの星も丸く、言ってしまえばタマゴも丸く、そして輪という形も丸い。繋がりというテーマもあったので今回はそこを全部イコールで繋げてみてしまおうという試みをしました。なので、作中において重要な役割を担うマイマイというポケモンは丸い形をしており、ポケモンのタマゴやおまもりすいしょうに近しい存在であり、輪を司るエニシデシアの子であり、自らのトレーナーと繋がりを得ることによってアイマイン(i mine/自分の道は自分で決める)に進化を遂げるわけです。
 更に、ユニオリングを発生させるために必要なアイテムとしてもう一つ、〝しんゆうのいと〟というものがあります。バハギアのモチーフになっている国ではお守りが名産品として有名なため、こちらはミサンガのような見た目を想定して考えました(お守りモチーフでというところではガムランボールもその一つです)。おまもりすいしょうとしんゆうのいとを組み合わせて、ユニオリングを発生させるための道具、ユニアミュレットが作られる、というイメージです。しんゆうのいとは親友という言葉と掛けて、信頼と勇気の頭を取ってしんゆうのいととしています。
 さて、そんなユニアミュレットを用いて行うユニオリングなわけですが、ポケモンが進化するとき、タマゴから生まれるとき、いつも彼らは光に包まれているように思います。そのため、ユニオリングはポケモンたちがあの光を身に纏うイメージで書いていました。また、ポケモンとトレーナーが繋がって一つになるさまを想像していたので、輪のような円い光に包まれるイメージもあったと共に、それこそミサンガを編むように一本の糸同士が繋がり合う光景も想像していました。そこから連想してミサンガが遺伝子構造に見た目が似ていると感じたことがあったので、何度かユニオリングでそういう表現をした記憶があります。ユニオリングが自らの弱点を乗り越えるという力にしたかったのは、メガシンカ的な表現をしたかったのに加えて、メガシンカとは別のアプローチをしたかったから、という理由があります。トレーナーの力を借りて弱点を乗り越える、というのは勇気と信頼をテーマにしているフォロポケにけっこう合っているのではと感じていて、個人的にお気に入りです。

 たそがれ〜物死にかけての自分の手癖でもあるとは思うのですが、LIBでも「色」を一つの大きなテーマにしていました。と、いうのも、ヌムリネさんの元々の見た目(服装などをのぞいた髪色や瞳の色など)が有する色がかなり無彩色に近かったので、そこを起点に感情や情景の色表現を行いたかったという思いがあります。あと、自分がかなりアニポケ好きなので、アニポケといえば虹だろう! 虹といえば色だろう! という思想がありました…(笑)なので、最初は透明なガラス玉から始まり、最後は七色の虹で締めようというのは、LIBを完結まで持っていこうと考えた当初から決めていました。
 個人的にヌムリネさんは無彩色というよりはいろんな色を吸い込んだ太陽光の透明ないし白だと感じていたので、或いはこの物語はヌムリネさんが自らの中にあった色を一つひとつ想い出していく物語だったのかもな、とも思います。

 おそらくもっと書くべきことがあるとは思うのですが、あまり長蛇になるのもどうかと思うので今回は一旦このくらいにさせていただこうと思います。最早フォロワーさんから聞かれたことを一つずつ答えていった方がいいのかもしれない。
 ただ、LIBを経て思うのは、ポケモンというコンテンツの偉大さだなあ。何を書いてもポケモンになるような懐の広さ、深さを改めて感じました。とにかくポケモンの描写をするのも楽しくて仕方がなかったです。
 そんなわけで、フォロポケを始めてくれた&一緒に遊んでくれた・追いかけてくれたフォロワーさんたちに感謝を贈りつつ、今日のところはこの辺で! ハティハティ!




20230826

 少し外に出る用事があったので、ついでになんとなく姪と近所を散歩してきました。
 田園風景の中になんとか道路があるような田舎なので、夏草のにおいがもの凄い。辺りを歩いているだけで、「緑色」と表現する他ない植物のにおいが、それはもうむっと胸の中に入ってくる感じがするわけですが、そのときマスクをしていなかったからか、その命に香りを与えたようなにおいがなんだか妙に懐かしく思えました。

 仕事に没頭して家に籠っているのも好きだけれど、同時にいろんなものを忘れていくなあとも感じるので、作ることは自分の中の何かを消費したり燃やすことなのだなと思う。
 家でヘッドフォンを外すと、外でツクツクボウシが鳴いている声がする。外に出ると、青空の低いところからどっしりとした白い雲が、太陽に向かって積み上がっている。風のない、信じられないほどの暑さが道の端から端までに降り注ぐ。伸び放題の植物と、一週間で死んでいくセミたち。鮮やかで猛々しい、それでいてどこか不安定さもある夏の色やにおいが好きだ。好きだけど、少しの嫌悪感もある夏のにおいは不思議だな。
 夕空の写真を撮っていたら、近所の運送屋さんのおじちゃんが、「高架下を少し行った先でもっと良い写真が撮れるよ」と教えてくれた。今日は暑くて帰ることにした(体力がなさすぎる!)けど、また来週にでも見に行けたらいいな。

20230820



 突然やる気を出して部屋(というか本棚)を改造していたのですが、片付けても片付けても本が出てきて我ながらどうかしていると思いました。本だけならまだしも雑貨も大量にあるのでほんとうにそのうち床が抜けるんじゃないかと危惧しています。部屋の模様替え、どうぶつの森みたいにぱっと出来たらいいんだけどナ……

 

20230816

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 結局全然ブログを書いていません! 日記を続けることが下手すぎます。元気です。最近は(も?)ずっと創作をしています。写真は春に買った虹色の櫛です。色はたくさんあればあるほど嬉しいね。それとポケマスのダンデアナザー、ほんとうにありがとうございます。

20220429


 大雨のなか仕事での外出があったけど、その帰りしなに寄ったスーパーでヒマワリを見つけたので少なくとも棚の周りだけは晴れた気がして嬉しい。



 なんだか今週(と言ってもまだ二日あるけれど)は自分の内側にある歯車があまり噛み合っていないような心地で、何があったというわけでもないのにふんわりと落ち込んでいました。
 自分自身をまるごと肯定する必要はないと思うけど、だからといって、つど否定する必要もないと思ってはいる。いるけれど、こうして自分の何もかもがなんだかゆるせなくなる日というのも、やっぱり生きている中では少なからず、比率的にはやや多めにあるわけだよなあ。いっそのこと何も考えられなくくらい忙しければいいのかもしれないのだけれど、選択した環境に慣れてしまった今ではきっと、目が回るみたいに忙しくたって頭の片隅でこんなことを考えるのだろうから、まあ、ある種の余裕が生まれてきた、のかもしれない。それが良い傾向かそうでないのかは分からないけれど。

 こういう、生きている上でのなんというか必然的な憂鬱を、私は人に自分の口から話すのがものすごく苦手だなあ、と年々強く感じるようになりました。どんなに些細な憂鬱でも自分の心に相当な負荷を掛けないと話せない私の弱音は、たぶん、聞いている側にとってもものすごく負荷が掛かる行為な気がして、それを想像するだけでまたちょっと、悲しい。

 ので、こういうときに頼るのはいつも、やっぱりこうして文章を書くことと、音楽、だなと思う。好きな音楽。

 私はGalileo Galileiというバンドがとても好きで、ほんとうに大好きで、心が錆びているときもそうでないときも彼らの音楽を聴いています。もうあんまり覚えていないけれど、高校生のときから好きなのかな? 初めて自分でCDを買ったアーティストも、初めてライブに行ったのも、活動終了というものを目の当たりにしたのも全部、Galileo Galileiが初めてでした。
 Galileo GalileiがBBHFに転身してからも彼らのつくる音楽がずっと好きで、生ける花が変わったから花瓶を別のものに変えるような、乗せるものが増えたから車を新しくするような、いわば物を入れる「器」のことをとても大事に思っている彼らのことを、私はすごく尊敬しています。
 それに彼らは、彼らの詩や音楽が「欲しい」と思う私の浅ましさを、私自身が「くだらねえしクソだ」と言っていいということを教えてくれたような気もするから。

 だから今日も私は彼らの音楽に頼り、感情を押し付け、浅ましいままでペンを握る。

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秘密なら僕も持ってたよ
毎晩 夢のなかで君になっていた